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二〇二三年五月 習作Ⅰ

二〇二三年五月 習作Ⅰ


 明け方になり、わざと作っておいたカーテンの隙間から薄ら明るい陽が入り込む。まだ鋭くないぼんやりとした光は、真っ暗だった部屋の古びたランプ、乾燥した鉢植え、脱ぎ捨てたカーディガン、かすかに埃を纏ったテーブルといった物たちの疲れたような曖昧な輪郭を浮き上がらせていた。私の深く沈んでいた意識も、この部屋のようなはっきりとしない灰色の彩度のまま浮かび上がってきた。

 繰り返しの音があった。すう、すう、という静かに呼吸する音だった。私が深く空気を吸い込んだり、胸を沈めて空気を吐き出す度に、その音は私に合わせて静かにしつこくついてきた。試しに大袈裟に空気を吸い込んでみると、やはり、すう、と音がして、吐き出してみると、また、すう、という音が聞こえてきた。それを二、三度繰り返してみるうちに、その音が自分から発せられていることに、私はようやく気がついた。

 眠りの混濁の中では、自分から出た音でさえ、私はその取り留めを失ってしまうほど散り散りに時間が流れているようだった。私は、自分から出た音さえ自分で気づかない間抜け具合に我ながらばかばかしく思い、笑いそうになった。が、次の時刻には、鉛のように鈍い波が私を攫いに来て、また身体を蒙昧な海へと引き戻したのだった。

よくわからない言葉たちが居た。「cup of coffees」だとか「peoples」だとか。淡い意識の中で脈絡もなく、意味も持たない壊れた言葉たちが、何一つ具体的な印象も持たない純粋な言葉の形だけが、ただ洄游していた。

 いや、言葉たちは壊れてはいなかった。複数形の仮象の裏で、私を嗤っていたのだった。私は惑わされた。何が一つで、何が二つで、何が全体で、何が部分なのかを急に忘れてしまったのだった。「溶け合ってしまったら、一つになってしまうというのに」と、何が「一つではないことになるのか」の証しを、私は突然立てられなくなってしまっていた。

 フィルターから滲んだ一滴のコーヒーも、零れ落ちて、カップの中で一体になって、途端に匿れて、いなくなってしまう。「物の輪郭ってそんなにはっきりしていたっけ」と、よくわからないことを勝手に考えて、勝手にそれに縛められていた。そうしているうちに、自分の独りよがりな気味の悪いところを見たような気がして、ぞっとした感じになり、私は考えるのをやめた。

 ふと、漂ってきたのは、コーヒーの香りではなかった。雨で濡れたアスファルトの、どこかあっけらかんとした、遠い記憶のほうへ引き込もうとする陰湿な大気の匂いだった。  雨が染みたアスファルトの水溜まりは飽きもしない様相で、雨雲の照らす交通量の多い何車線もある大通りの、行き交う車の倒影を映していた。その道路の交差点の手前には信号機があって、そのランプもまた、青緑色の眼で冷たく灯り続けていた。

 私は国道をひたすらに走り抜ける車の助手席から、単調な景色を眺めやっていた。すると、私は遠くの、前方のほうに、道路の地面に何かがばら撒かれているのを見つけた。幸いにも道路の幅がかなり広かったので、慎重に走れば通り抜けられそうだった。

 ゆっくりとそこを通り、散らばっているものに近づくと、それらはラベルも形もさまざまで、色とりどりの飲料の空き缶だということがわかった。それらは、散乱してからそんなに時間が経っていないのか、子供が玩具を散らかしているようなある種の秩序を漂わせていた。さらによく見てみると、空き缶の散らばっている辺りには、蛍光の緑色のスライムが、散在している間から滲み出た体液の様に地面一帯に広がっていた。

 赤や青や銀色の金属の光沢が、雨に濡れて鋭く色めき立っていた。道路に、缶に、スライム。よくわからない組み合わせだった。誰かがいたずらで缶やスライムをばら撒いて行ったのか、それもとそれを運んでいたトラックがなんらかのアクシデントで不意に落としてしまったのか。見当をつけるにも奇妙な取り合わせだった。ただ、同時に、アスファルトの内に籠った乾燥と、スライムの粘着質、空き缶の空虚な滑らかさのそれぞれは、おかしいながら、丁度いい均衡を保っているようにも感じられた。

 そんなことを思っているうちに私を乗せる車は、とうにその場所から離れて、一定の速さで次々に景色を追い越してゆき、流れていく街並みも、ついさっきまであれだけ気にかけていた缶のことも、私は過ぎ去ったことにして、自分自身、苛立しいほどそれらを遠い記憶にしていっていた。

 次に目に留まったのは、遠方で目立っている真っ白な外装の、開放的な正方形の大きなガラスのショウウィンドウが特徴的な建物だった。窓の向こうに、シャツとエプロンを身につけた恰幅のいい男が、なたのような大きな包丁を持って何かを切ろうとしていた。その何かは、繭のように美しい白だった。それは、両手を目一杯広げてようやく抱えることができる様な大きなものだった。一体、あの白いのは何だろうか。建物にしても、様子にしても物珍しかったので、私は見入るのを止めることができなかった。

 その白い塊は、表面が滑らかで、凹凸も緩やかであった。直線的なところがなく、ころんとした風であった。そんなところからして、中身は柔らかいに違いないと直感した。柔軟な布の様なもので、折り目も、境目もなく、ひとまとまりの塊として巻かれているようにも見えた。その歪な立方体は、その不完全さからか、どこか悠然とした雰囲気を漂わせていた。

 男は、その物体に刃物をかざし、ゆっくりと大事そうに刃を入れていった。男のその表情は、その物体を切る行為がまるで儀式のようであって、彼の慎み深さを語るかのようであった。刃は、すっと粘土でも切る様に刃の重さに従って沈んでいった。

 それにしても、この建物も、あの白い物体も初めて見たものであった。そして、あの男の純朴な表情は、今日のこの街並みの雑踏からは少し隔たっているように感じ、それがさっき見たものの印象の違和を強くしていた。

 私は、隣で車のハンドルを握って、直線の道路をひたすら走らせている彼に尋ねてみることにした。

「ねえ、あの白い塊ってなにか知っている?」

私は、自分で質問しておきながら、彼があの建物に気づいていることさえ半分期待していなかった。それに、別に知ったからといって、なにになるわけでもないこともわかっていた。しかしながら、この違和の核になにかを感じ取り、彼に尋ねたくなってしまったのだった。

「あの白い平屋の中にある塊のこと?」

「そう、あのお店みたいなところの。ショウウィンドウがあるでしょう。そこから何か大きいものを切ろうとしているところが見えたの。あんなの初めて見たから。」 すると意外にも彼は、あの白いものについて知っていそうだった。私はあの建物に、なんとなくブティックの様な雰囲気を感じていた。でも、そうだとすると刃物はそこに似つかわしくなかった。

「知らないの。あの白い塊は女体だよ。」

彼は、やはり車を一直線の道に同じ調子で滑らせながらそう言った。私は、その返答のあまりの怖さに口を噤んでしまった。想像もしていなかった彼の言葉に私はたじろいだのだった。ただ想像に反していたものの、あの白い塊の正体が女体であると聞いて、恐ろしいながらも妙に納得した感じをも同時に思った。それは、あの白い塊の全く見ることのできない内側の、微動だにも動かないそのオブジェクトに、どこか有機的な主体の面影を認めていたからであった。しかしながら、その中身が人間であること、もとい「女体」であることを、私は恐怖や嫌悪から反射的に認識を拒んだ。それに、そういう風に見出すことを人として正当な反応だとも思った。

人が、あの様に丸められ、切断されるということは普通ではない。そして万が一、あの「女体」が生きていたともすれば、残虐極まりない行為であり、殺す仕方にしても、人道を外れていると言っても過言ではないだろう。反対に、あの「女体」が生きていなかったとしても、亡き人を真っ二つに切断してしまうことに、侮蔑的な感情が湧き上がってきて、気味が悪かった。なにか、慣習のような意味があって、私もそれをわかっていたら受け入れることができていたかもしれないが、そのような文化は聞いたこともなかった。そして、あの白い塊が「女体」と限定されることもまた、格別な不気味さを与えていた。女である私もまた「女体」として惨たらしいその対象にされてしまうのではないか、そんな不安までが肥大してきて忌々しさをも抱きはじめた。

それにしても、私の横で車を運転する彼は、あれが「女体」であることを何も気にかける様子もなく、むしろ反対に、私の常識を疑うかのように、彼は私の質問に答えていた。私がおかしいのか、彼がおかしいのか。混乱している私と、落ち着いている彼の様子を改めて客観視すると、尚更わからなくなってしまった。もし彼を基準にするなら、何が非道で何が道理なのかわからなくなってしまう。

一方で、あの男の塊を切る時の表情は、澄んだ祈りの中にあるような神妙さであって、冒涜的に思えた行為が、一転して、人間の営為としての歓ばしきことに思わせるような矛盾した印象さえ与えた。そうなると、いよいよ事態が混然としはじめた。私は少し気を落ち着かせると、こんなことを、あたかも普通のことであるかの様に語る彼が、疑わしく浮き上がってきて、彼が私に嘘をついているのだ、と思い当たった。私を騙そうとする彼の滑稽さに少し安心した感じを思い出した。

「そんな、女体な訳ないじゃない。そんな、わかりやすい嘘。」

私は、先の彼の嘘に返事をするにしては長い沈黙の後で、冗談っぽく言った。

「本当に何も知らないんだから。まったくなあ。」

彼は、相変わらずの調子でそう言った。私の世間知らずを、いつものように笑うだけだった。車を運転する横顔も、天から見下している雲も、いつもと変わらない情緒でいて、私はそれを白々しく思った。

 だが、あの切断の対象が女体ではないと疑えば疑うほど、彼の作った嘘だと断定しようとすればするほど、あの切られている対象の生々しさがくっきりと顕れはじめ、また、あの行為を犯罪的だと否定しようとすればするほど、切っていた男の思惟の奥にあるような瞳が、私の頭によみがえってきて、私自身の邪さが鋭く照らされるような気持ちになった。

私は、自分を疑ってみることにした。あの狂気的な行いが、私以外の人々には常識として通用していて、私だけが、それに共感できずにいるだけなのだと仮定してみた。でも、どう頑張ってみたところで、感覚として、やはり人間の肉体を閉じ込めて、切断するということに、何の共感もできず、考え回ってみたところで、私の頭の中が、すぐにぐるぐるとしはじめてしまって、迷子のように途方に昏れてしまった。

憔悴してすっかり黙り込んでいた私の様子に、彼が気づいたようだった。

「ありえないでしょう、だって女体を切るなんて。」

「いや、いや。普通じゃないのはそっちだよ。こんなことも知らないなんてさ。たしかに、残酷に感じるかもしれないよ……。けど、でも、そんなことを言い出したら、世の中もっと酷なものだってありふれているんだよ。」

彼は、子を諭す母のような声色で私を心配するみたいに言った。そして彼は続けた。

「そんなに信じられないなら、実際にあのところへ見に行ってみようか。見れば、きっと……。」

私は問答を続けているよりは、彼に連れて行ってもらうほうが、彼の言うことが本当だったとしても、ずっと良いように思った。私は、すでに「女体を切断する」ということについての恐怖よりも、自分の常識が如実に曖昧に脅かされていくことのほうが耐えられなくなっていた。

「うん。」

彼は、走らせていた直線の道路を、ハンドルを切って分離帯の切れ目から転回し、さっき通り過ぎたあの白い建物の方向へ車を向かわせた。

 私たちは、例の建物に到着するや否や、車を降りてエントランスへ向かい、はやる気持ちを抑えながら、重厚な扉を開いた。ドアを開けると、内装も、建物の外装と同様に白かった。床も、壁も、インテリアも白く、空間全体が、神経質に白でコーディネートされていた。私が部屋を見渡していると、すぐにこの建物の主人らしい男が出迎えた。

「ええ、どうぞ、どうぞ。もっと内側へ、さあ、お上がりください。今日は途中雨に降られたでしょう。夜からは素晴らしく晴れるようですがね。」

「ははは、そのようですね。でも、夜に晴れていても、僕なんかは気づかないでしまいそうです。」

「あはは。私も自分で言っておきながら、この時分は星を眺めるのをすっかり忘れていましたよ。」

私は二人の退屈な会話には混ざらず、ただ落ち着かずにいた。その様子を、この建物の主人が申し訳なく思ったのか、「よかったら、私の切った作品をご覧になっていきませんか。」と私たち、というか私に提案した。

 「展示品をご用意しているんです。」

「それは、ありがとうございます。初めてここへ伺うのに、おこがましいんですが、実は今日、彼女にそれを見せてみたくて、お邪魔させてもらったんです。なんでも、彼女がこれを見たことも聞いたこともないというんですから。今日は見るだけになってしまうんで、申し訳ないんですか、どうか見せてやってくれませんか。」

「もちろん、ご覧になっていただくだけで構いませんよ。私は自分の作品を見ていただけること、それ自体が嬉しいことなのです。それにまだこういったものに触れたことのない方に知っていただけるというのは、なんとも光栄なことです。」

どうやら彼は作家のようだった。そして、やはりその作品の正体が切られた女体であることは、否定されないままに話が進み続け、私はとうとうその「展示品」とに会うことになった。エントランスでずっと立ち話をしていた私たちだったが、奥の部屋へと移ることにした。

「こちらの部屋です。」

部屋に通されるとそこには、それが何体かあった。そこには、女が人でない姿で、何か加工された姿でいて、建物の壁に備え付けられていて、もう、その場からは離れることができないようだった。固い無機質の壁と、その女の皮膚とが、どうしてこんなに自然に一体になっているのか、違和感のなさが不愉快なほどにそれらは融合していた。壁に取り付けられた女の唇は潤い、頬はほのかに桃色をしていて、髪は艶やかであった。生気を失っている様子は、全く認められなかった。

 そこには本当に、女体の姿があった。どうやらこの姿に形成するために、女は確かに切られているのであった。女は、この、人間ではない形に、オブジェとして形作られていたのだが。切断面というと、まったくその切断の痕跡はなく、血液などでは汚れておらず、まるで、白い産み落とされたばかりの卵の殻の表面のような、球体人形のような潔癖さであった。

私は、恐怖よりも、そのような姿の彼女の存在が不思議で堪らなくなった。本当に人形ではないのか、生きているのか、確かめたくて仕方がなかった。私の指は、自ずと、彼女の唇をそっと撫でていた。唇は柔らかく、しっとりとしていて、不憫なほど温かかった。哀れに思う茫漠とした気持ちと、きれいだと感じてしまう率直な気持ちとが、一挙に湧き上がってきて、私はなんとなくこのオブジェクトの意味の在りかの片鱗にも触ったような気がした。

女が生きたまま、人間としての形を変貌させ、人間でありながら人間ではない姿として成立していた。自身の意思で動くこともできず、単に置き物として存在するなんて、そんな不条理なことが目の前にあって、私はまだ飲み込めないでいた。私は咄嗟にこの女のことを聞いた。

「彼女は死んでしまわないのですか。」

私は彼女が死からはほど遠く、貪欲な生の臭いを私よりもずっと帯びているのをわかっていながら、そう質問した。

「何をおっしゃいますか。ご覧の通り、肌の肌理も普通の人より良いくらいです。血管や神経は切断する前よりも良い状態にしてから、完璧に繋ぎ合わせていているんです。もちろん、栄養を与えなかったり、維持のための世話を怠れば、当然死んでしまいますが。ただ、それも専門の者が訪問して行いますから、死んでしまうということは滅多なことがない限り起きないのですよ。」

横にいた私の連れ合いの男もその説明よりも私の受け答えに興味があるらしい態度で佇んでいた。 オブジェとなった彼女も、瞳を閉じ、ゆっくりと静かに呼吸しながらそこに佇んでいた。

「そうなんですね……。」

私は改めてこの女体を観察してみた。それは単に切断された肉体ではなくて、切断面にはほとんど縫われている痕がなかった。あったのは、小さな蜘蛛の作る精緻で優美な巣に使われるような、か細い糸の痕跡であることにも気がついた。私は、このオブジェの芸術的に甘美な部分を見出し始めてはいたものの、一体これがどのように実際に所有した人の生活になずんでいくのか依然としてわからなかった。

「ちなみに、これは具体的に生活にどんな風に……。」

「どんな風に楽しまれるのですか」と、尋ねようと思ったが、やはり女体を主語として続く言葉が、楽しまれるというのはおかしいんじゃないかと質問を口にしながらふと気づいてしまい、言葉を探しているうちに、緊張した感じになってしまって質問自体、消え入ってしまった。

「私たちは発注していただいたら、発注した方のお話を聞きに行くんです。対話を重ねて、その方の内なる悲曲に耳を澄ませます。私はその雫をなるべく掬い取ろうと、ひたすらに黙っているんです。もちろん、溢すことの無いよう努めても、どうしても滴り落ちてゆく雫があるように、完全ではございませんが。」 私が無言だったためか、男は私の質問の意図を、思惑とは反対に、正確に汲み取ったように、語り始めた。

「私たちは女体を観ているようでいて、女体を観ていない気がするんです。女体を通して、その依頼人の過去とこれからを見つめていて、依頼人もまた、その所有者になれば、女体を観るというよりは、その者が観られ、女体が運ぶ命に与えられて、生きてゆく気がするんです。」

彼は、自身でうまく言い表せられない悔しさを声色に滲ませながら続けた。

「このオブジェは、たしかにこれ自体がそこに在ること、それがすでに目的とでも言ったらいいんでしょうか……。これが在ることで、自分が顕れてくるような気がします……。」

私は彼の言うことが分かるようで、やはり分からなかった。彼の話は、具体的なところがなくて、掴みどころもなく、結局どのように生活に馴染んでいくのか分からないままだった。だが、私は彼が決まったような答えを述べるのかと身構えていたのだが、実際の返答は、私が思っていたよりは長く、歯切れの悪そうなところからして、彼自身その答えを持っていなかった。このオブジェの目的は依然として漠然とわからないままだった。

「女体を切るあなたや、女体を所有する人が、このオブジェを通して顕れると言うのですか?」

「そうだと思うんです……。これは直感としか説明できないのですが……。」

話しているうちに、私も男も話の行きどころを失ってしまった。だが、失ったことでかえって男は充実した風であった。

 車から眺めた、女体を切るときの彼の表情から、道念のようなものを感じた私の彼への第一の印象は、あながち外れてはいなさそうに思った。結局、分かったのは「女体を切る」ということが特段変わったことではなく、ましてや事件などではないことだった。この女体を切断する男も、私の連れ合いの男も、この建物も、平静としていて、ぽっかりと開いた窓から覗く街ゆく人々も、ただ通り過ぎていくだけだった。

「本当に、私だけが知らなかったんですね。」

「ええ、これをご存知でない方は初めから終わりまで、ずっと知らないまま生涯を過ごされることが多いものです。別に隠されているというわけではないのですがね。」

私の連れ合いの男は、思い出したかのように言った。

「そういえば、赤煉瓦のあの大学にも研究科があったね。」

(文章の欠落)

 気がつくと私自身、備え付けられていた。近くなったフローリングと、鈍い光沢の金色のドアノブで装飾された大きなドアがそびえ立っていた。私の右手側にはどこか異国の感じのする深い緑色の大きな葉のついた観葉植物もあった。

時刻は夕方だろうか。窓からは昏れて光の活力の減衰しつつある西陽が、風で膨らんでいくカーテンとその植物とを床へ写像にして伸びゆくところを、私はこの部屋の翳った隅から眺めていた。私の左手のほうはがらんとしていた。とは言っても実際の左手は、あるのかすらわからず、動かすこともできなかったのだが。身体を動かすことは出来ないものの、首の自由はあった。私は虚ろな重さに身を任せ、うとうとしてきていた。眠気のぬかるみの心地よさに促されるまま、首を横に倒し、また瞼の閉ざされてゆく意識の浅瀬に浸っていた。

ガチャリ、と私の前方にあるドアが開いた。私は咄嗟に頭を縦に起こした。首を横に倒している姿が羞しいと感じたからだった。

ドアから入ってきた男は、チャコールグレイのくたびれたスーツを身につけていた。若いようにも見受けられたが、痩身のためか、あるいは白髪混じりの七三分けの髪型のせいかスリーピースのスーツも相応しく彼の肌に馴染んでいた。彼はジャケットを脱ぎ、椅子にそれをかけた。白いワイシャツとベストの裡には、多少なり肉感的な張りが感じられた。

彼は私のまどろむ前方にある椅子に腰をかけた。

「暑くはないですか?」

「はい、今日は風もありますから。」

私と彼は定型文じみた会話を交わした。カーテンは依然として風の波の形を露わにし続け、その度に新鮮な空気が私を洗い、今の姿の方へと代謝させていくようだった。

「私は、このままでいいんでしょうか。」

「さながら、仄明るい不安といったところでしょう。」

「そうなのかもしれません……。今は、もう私には、身動ぐことさえできないんですから。でも、確かに……。」

「でも?」

「さっき、夢を見たんです。何か予感した気がしたんです。」

「夢ですか。」

「はい。夢で湖を泳いだんです。森林の中にある湖で、私の背の丈の何倍も水深があって。けど、木の根や底に沈んだ石群も、よく見えるくらいきれいなんです。私、本来カナヅチで、息継ぎもできないし、何メートルも泳ぐことができないんです。でも夢の中では泳げたんです。遠くへも、深くへも。そのうちに、私は、いつの間にか何キロも泳いでて、流木と濁流の中を疲れながら泳いでいました。そう、とても疲れながら泳いでました。すると、水の精が私のために唄をうたってくれたんです。」

「そうなんですね。それは、不思議な夢ですね……。たしかに、なにか暗示的な夢なのかもしれません。」

「ええ、私もなんとなくそう思うんです……。」